人生、全部素晴らしい!

推しを愛でる人の日常です。

読書記録

今さらですが、話題になっていた「推し、燃ゆ」を読みました。

その感想をつらつらと。

 

 

 

私にも推しがいるので、共感できるところがたくさんありました。

読んでいる最中ずっと、私自身の推しが頭の片隅にいる。

2年半前、私の推しグループのメンバーが脱退会見をした、忘れもしないあの光景が蘇る。

私は当時、この先どうやって生きていけばいいのか分からなくなった。

「推しは人になった」というあかりちゃんもそんな気持ちだったのだなあということが、細かい表現で言語化されているのがとても印象的でした。

 

病気で社会にうまく馴染めず、生きづらさを感じているあかりちゃん。推しを推すことで、アイデンティティを保っていたんだろうなあと。

その推しを推すことができなくなるということが、どれだけ絶望的なことかと思い知らされる。それでも、他の人のようにうまく生きれなくても、自分なりに生きていくと決めたあかりちゃんのこれからが楽しみだと思いました。

 

これまで「推しを推してきた」という事実と、推しを解釈し続けてきたことが「生きていく」という決断につながったのではないかとラストを読んで感じました。

 

 

 

そして、個人的には、あかりちゃんの推しを愛でる様子に首がもげるほどうなずきました。「推し方」っていろんなスタンスがあると思うけれど、私の推し方はあかりちゃんに通ずるものがあって。

 

 

「携帯やテレビの画面には、あるいはステージと客席には、そのへだたりぶんの優しさがあると思う。相手と話して距離が近づくこともない、あたしが何かをすることで関係性が壊れることもない、一定のへだたりのある場所で誰かの存在を感じ続けられることが、安らぎを与えてくれるということがあるように思う」

 

 

という文章には共感の嵐でした。「そのへだたりぶんの優しさ」という表現がすごい。

よくライブで「気づいてもらえた」とか「かまってもらえた」とか、いちファンとしてのそれとは別の、そんな類の話を聞くけれど、私はあまりそういうのは求めていない。ライブに行くとなったらファンサうちわは作るし、アリーナ花道前とかだったら嬉しいし、目があったりファンサしてもらったりしたらより嬉しいけれど。

 

 

「あたしは触れたいとは思わなかった。現場も行くけどどちらかといえば有象無象のファンでありたい。拍手の一部になり歓声の一部になり、匿名の書き込みでありがとうって言いたい」

 

 

という文も然り。

私自身は、推しの存在を感じることで十分幸せだし、それ以上のことは求めていないんだなあと思う。何かして欲しいとか、認識して欲しいとか、見返りを求めているわけではないんですよね。だから、推しの私生活が知りたいわけでもなくて。一方的に見て、推しがメンバーと楽しそうに笑っているのを見たりとか、発言に湧いたりとか、雑誌のインタビューとかでの発言を見て「◯◯くんと付き合いたい」とかって妄想しているだけでもう十分幸せ。笑

「アイドルをしている推し」の存在が好き。

 

だから私は推しがアイドルを辞めたら、もう追わなくなってしまうだろうなあとも思う。

最後にあかりちゃんが特定された推しのマンションに行って、推しが普通の人として生活しているという事実を突きつけられたところ。彼女にとってそれがピリオドとなったのもアイドルである推しが好きだったからなのだろうなあと感じました。

 

そういうところも含めて、成美ちゃんとの対比も私的にはとても刺さりました。

 

 

 

もうひとつ。作品の中に出てくるSNSの中の描写がすごくリアルだった。

私も推しを推すツールの1つとしてSNSを利用しているけれど、本当にあんな感じというか、いろんな情報やいろんな意見が処理しきれないほど入ってくる。

その中にはやっぱり心ない声もたくさんあって。

 

 

「閲覧数なんかいらない。あたしは推しを、きちんと推せばいい」

 

 

私の推したちにもこの2年半いろんなことがあったけれど、あかりちゃんのこの言葉みたく、外野の言葉に左右されず、”推しを信じて推し続ける”ということを大事にしていきたいと思いました。

 

 

 

この作品を通して、生きること、その中で推しを推すということについてあらためて考えさせられました。

 

永遠なんてないことは私自身もこの2年半痛いほど突きつけられました。

そしてどんな日でも、生きていかなければなりません。

いつどんな時でも推しは尊いし、推しを推せる今日があることは幸せ。

私は私なりに、今日も推しを推していこうと思います。